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社会福祉法人 恵の園
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あけぼのコミュニティー教会

 

 

2016年10月 聖書のことば


 

 

 6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
 6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
 6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
 6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
 6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。

                                                 マタイの福音書6章26~30節

 秋の気配が漂っているというのに、今日は、夏日のような暑さです。沖縄に暴風雨をもたらした台風が、次第に
向きを変えて、九州から本州にやってきそうな気配です。
毎年、「観測史上初」という言葉が並びます。このまま、行くと河川の氾濫や、風速50メートルという出来事も、
「例年の通りに」となってしまうのではないかと心配しているのは、私ばかりではないでしょう。

人間は、知恵を出し合って様々な危機を乗り越え、発展してきました。しかし、その発展の陰で、多くの負の遺産を地球にもたらしたことも認めなければなりません。地球の恵みは無尽蔵ではありません。今のまま行くならば、
人間の努力だけでは追いつかないほどの問題が起こることは間違いありません。

「どうしたらもっと発展して生き延びることができるか」という視点から、「なぜ、生きているのか」という視点に転換
する必要があるのではないでしょうか。
鳥が空を飛び、花が美しく咲く、そのことだけを考えても、決して人間がどんなに頑張っても作り出せない奇跡です。ならば、その鳥を生かし、花を咲かせる方がおられることを見つめなければなりません。
鳥を生かし花を咲かせる神は、たった一匹の雀でさえ、無駄には死なせないお方だと聖書は言います。
そして、私たち人間は、その神の愛によって生かされているのです。
鳥を養い、花を咲かせる神が、私たちによくしてくださらないはずはないと聖書は明言します。
この神に信頼して、今こそ、神の言葉に耳を傾けるときではないでしょうか。

天高く馬肥ゆる秋、名月の秋、紅葉の秋、読書の秋・・・空を見上げながら、鳥を見ながら、花をめでながら、全てを造り、全てを治めておられる神を思う秋となりますように。

                                                     2016年10月4日 櫻井記

 

 

 


ならないもののために、

正しい仕事に励むように

教えられなければなりません。

それは、実を結ばない者にならないためです。」

テトス3;14


 

有名な元野球選手Kが、覚せい剤の所持と使用で逮捕されました。多くの球児たちが

彼に憧れて同じ道を道を目指したそうです。

彼自身も、数年前に、覚せい剤疑惑の報道がされた後、ヒットを打って、覚せい剤を

打つなというような標語のポスターになりました。

逮捕された場所は、家賃50万以上のビルの高層階にあるマンションだったとか。

 

 

華々しい経歴と、高額な家賃のマンションに住める収入。多くの人の憧れと名声。

しかし、その背後で、家族と別れ、子供たちにも年に数回しか会えないという寂しさ。

だからと言って覚せい剤の罪が許されるわけではありませんが、屈強に見える

体の中にあるとてつもない孤独を感じないわけにはいきません。

何かを得るために失うものの代償は、人それぞれの状況によって違います。しかし、

失った後に気付くものが多いことは事実です。

彼が得ようとしてのは、筋骨隆々とした強さだったのでしょうか。その代償として薬漬け

となったのではないかという憶測が流れます。

番長という代名詞に表現された自分を守らなければならないために、体や心に傷をつけ

たのでしょうか。

会えないと言って、寂しがるほど大好きな子供たちと、その子供たちをともにはぐくむ妻と

別れてまで、彼は何を得ようとしたのでしょうか。

彼が人として、取るべき責任は大きいでしょう。

しかし、神の前に立つべき人間として、私たちは改めて誰の中にも潜む問題に目を留め

たいと思うのです。

私たちが何かを失ってまで手に入れようとしているもは、本当に私たちに必要で、なくては

ならないものでしょうか。

 

誰もが彼ほど有名で活躍したわけではありません。しかし、今回の彼の事件を通して、

私たちに本当に必要なものは何かを考えてみたいものです。

確かに、人は何かを得るために、努力をし、何らかの代償を払わなければならないものです。

 

しかし、本当に得なければならないものが何であるかを知ることが大切です。

 

箴言は次のように言っています。

「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる」

箴言15:16

 

「主を恐れる」こと。それは、神が最終的な恵みや祝福の付与者であることを認めることです。

また、自分自身が最高決定権を持つものではなく、絶えず、私たちの目の前に、仰ぎ望むべき

存在を認めることです。

その方が与えてくださるものの中にある最善を受け止めることのできる心。これこそ、私たちが

持つべき最も大切なものなのです。

 

この方を知るときに、私たちはヨブのように言うことができるのです。

 

「【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」  ヨブ1:21